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街宣小僧の読書日記でございます
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平成16年 6月3日(木)

『日本近代思想批判−一国知の成立−』(子安宣邦)を読む。
この子安という人は、丸山眞男先生みたいなもので、我が国の近世から近代にかけての思想を、近代西洋の立場から批判してゆくスタイルを持っているのであるが、その批判がどうこうということではなく、批判されている対象や批判が準拠している近代西洋の思想を学ぶためにも、僕は結構読んでいる人である。昔、氏の『「宣長問題」とは何か』『本居宣長』などを読んでいるとある人に言ったらば、「こちらの陣営の人間が読むものではない!」とか言われたが、それは違いますよね。そういうことではないでしょ。認めるものは認めるべきですよ。

さて、この本全部を紹介するとこちらも精魂尽き果ててしまうので、この本における「国語/日本語」という問題について若干触れるだけにしておきたいのだが、国家国民の語としての国語と日本列島で多用される日本語というものの区別という「国語/日本語」という問題が常に我が国にはあり、大日本帝国の版図の拡大と大東亜共栄圏の樹立のなかで、さらに「国語/日本語」の問題が大きくなり、新たな様相を示してきた、と氏はいう。
で、日本語と国語は分かちがたく結びついている、だが日本語と国語は違う、国語は国家語である、みたいなことを言い始めて、朝鮮半島が大日本帝国である以上朝鮮人は大日本帝国の臣民であり、ならば朝鮮語も国語の射程たりえるのではないか、みたいな「うるせー、ボケが!」と思わず叫びたくなるようなことをネチネチいうのだが、しかし実際その通りなのではないか。つまり大日本帝国における朝鮮併合の位置付け、あるいは大日本帝国とは一体何か、ということを我々が考えねばならないということである。大日本帝国において朝鮮半島は外の視線か内の視線か、ということであり、大東亜共栄圏の公用語として日本語を拡大する時の我々の心性は一体どういうものか、八紘一宇の精神にのっとっているのか、こういうことではないのか。「こちらの陣営」だからこそ、氏のこういった視点を踏まえて、我々がこういうことを考えてゆくのでなければならないと思うのである。

平成16年 4月20日(火)

「A」「A2」を見る。
オウム真理教を取材したドキュメンタリーである。
考えさせられる。

人類救済のためにサリンを撒いたオウム
知る権利と称してオウム信者を追い掛け回すマス・コミ
オウムを取り締まるために自ら違法行為を働く公安警察
自己の安寧のためにオウムを叩きだす市民
オウムと建設的な話し合いをもとめる右翼民族派
オウムに殺害されかけても彼らを理解しようとする男

ビデオ・カメラという客観的視線が、ありとあらゆる現象を、ただ映す。そこには完全な“現実”がある。
もちろん監督の主観も入っているのだろうし、メッセージもあるのだろうが、しかし映し出された映像は、現実。ただ淡々と現実という映像を映し出してゆく。

僕などは、いかに僕らの生きている世界があやふやでめちゃくちゃで、しかし“確実”なんだ、ということを思った。
そしてこれは、北野映画を観た時の感覚と似ている。
何でだろう。

ともかく、お薦め作品ですね。
神奈川の民族派団体の代表であるSさんも出ていますしね。

グーグルでもヤフーでもいいので、「オウム 右翼 A2」というキー・ワードで検索してみて下さい。
我々民族派についての、比較的好意的な感想がたくさん出てきますよ。
だいたい上のSさんに対しての好意的意見ですね。さすがです。

平成16年 4月2日(金)

『マルクス−読みかえの方法』(吉本隆明)を読む。
これ、一年ぐらい前に買って全然読んでなかった本ですね。

ごく最近の吉本は読んでないので知らないけれども、ちょっと前までの吉本は文章を書くということをあまりせずに、たとえば対談を本にまとめたり、
編集者(と思われる人間。または学識者など。いずれにしても第三者)との問答を本にまとめたり、ともかく文章を書かなかった。
そしてこの本もやっぱり対談をメインにまとめた本です。何なのでしょうか、やっぱり年をとると文章を書くことが億劫になってくるのでしょうか。
読みやすいんだけども、何かバカにされた感が否めません。
いい文章をバチっと書くんですよ、基本的には。一時期吉本隆明の文体にかなり影響されたぐらいなんですよ。それなのに、ねぇ。

そしてこれも吉本流だと思うのですが、例えば「<アジア的>なるもの」とか「超西欧的」とか「〜ではない問題」「ぼんやりとしたイメージ」とか、
何て言うのでしょうか、ともかくそういうような核心を突く表現をしないというか、非常にぼやっとしてるのです。
それはそれで僕のなかの吉本流だから全然許容範囲なんですけど、長い間その表現に触れてるとイライラしてきますね。

僕にとってこの本は、「吉本流」に触れることが出来てよろしいと思うと同時に、彼のマルクス理解と彼の問題意識、過去の著作の意味合い、
マルクスの思想の簡単なおさらい、そういったものが出来て、まぁ、いい本だと思います。


平成16年 3月14日(日)

『埴谷雄高 政治論集』(埴谷雄高)を読む。
埴谷氏の『死霊』という本があって昔読んだんだけども、途中でギブしたんですよね。ほとんどその罪滅ぼしで埴谷先生の
この本を買って読みました。
まぁ、内容的には面白いですよ。私の学術的・探求的モティーフとほとんど一緒なのではないかな。

平成16年 3月4日(木)

司馬遼太郎『翔ぶが如く』第一巻読了。
どうなんでしょうか。何だか緩慢な印象が強かったな。司馬遼太郎の小説ってこんな感じでしたっけ?
この小説は全十巻もあるんだが、ちょっと全巻読むのはためらっちゃうなぁ。
でも西郷どんの征韓論や思想、また西郷どん自身の書き方は、歴史的事実や西郷どんの思想を基に書かれている感じがして、
なかなかよろしい。葦津珍彦先生が西郷どんの思想と生涯を書かれた『永遠の維新者』という本があって、
その本は西郷どんの思想を明確に分析しててお薦めなんですが、司馬遼太郎のこの小説における西郷どんの書かれ方も、
この『永遠の維新者』に近い感じを受けます。

『チベットのモーツアルト』(中沢新一)を読む。
小難しい、の一言である。ただこの本の「現実論」とでも言おうか、現実の受け止め方と現実とは何か、ということへの認識は好きだね。
理解出来る。そのアプローチの仕方も好感が持てますな。
この本の解説は吉本隆明氏が書いているのだが、その解説のなかで吉本氏は中沢氏の仕事を「精神(心)の考古学」と形容している。
「精神(心)の考古学」だって。格好よろしいな。

『コンスタンティノープルの陥落』(塩野七生)を読む。
まだ読み始めたばっかですけど、まぁ、面白いですね。
やっぱり歴史ものが好きなんだなぁ、僕は。
ローマ・カソリック教会の、内向的な・嫉妬深い荘厳さよりも、東方正教会のエスニックな荘厳さが、僕は好きだな。

平成16年 3月9日(火)

『コンスタンティノープルの陥落』(塩野七生)読了。
ふん、いいんじゃないの、って感じ。
ただねぇ、女性の作家ですからね、視線が女なんだな。
何て言うか、女なんだよ。
いかんね。

『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』(今村仁司)を読む。
面白いんだが、小難しい。頭痛くなってくる。
歴史の役割、つまり歴史哲学ですよね。その意味っていうのがなかなか面白い。
過去の救済・解放、歴史の終焉、唯物論の神学的構造…、面白いね。
ただもう少し簡単に文章書けよ、って。

『ドイツ・イデオロギー』(マルクス・エンゲルス)再読。
面白い。文句なしに面白い。あのー、論争の書ですから、すごくアツいんですね。ヒートアップしてるんです。
後半はちょっとグダグダというか、あれなんですけど、前半の観念論批判・ヘーゲル哲学批判・青年ヘーゲル派批判は、面白いですね。
しかしね、マルクスもそうなんだけども、哲学系の本を読む時は、辞書をひきひきしなきゃならないのですよね。
一つ一つの単語がむずいから。
それが邪魔くさいね。

平成16年 2月29日(日)

先日買った『翔ぶが如く』(司馬遼太郎)を読む。
明治維新−維新政府成立−征韓論−西南の役という歴史的時間的流れを軸に、西郷どんや大久保利通など様々な人間関係を描いている。
司馬遼太郎を読むのは久し振りだなぁ。中学生から高校入ったぐらいの時は、アフォみたいなに司馬遼太郎を読んでいた。
しかも『坂の上の雲』とか『竜馬が行く』とかじゃなしに、『覇王の家』とか『関ヶ原』とかね(徳川家康大好き)。

しかしあれだね、まだ読み始めたばっかだからあれだけど、あんま面白くない(笑)
なんだろう、こう、筆がのってないっていうかね。
まぁ、とりあえず読み進めてみますわ。


また『真説「陽明学」入門』(林田明大)も購入、併読。
これも読み始めたばっかだからあれなんだけど、あんま面白くない。何ていうかね、処世訓とかに帰しちゃ行けないと思うのね、陽明学を。
だって革命哲学でしょ。
しかも陽明学のイメージを変えるためか本来のイメージを回復するためか、妙に俗っぽいのね。
いや、書き方とかは硬質で論文調なんだけども、何ていうかねぇ。

帯の文句がさ、

「自分」を輝かせていける極意、「未来」を創るエネルギー源!

だもん。違うだろ、と。
陽明学ってのは、もっと殺伐としてるべきなんだよ。

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